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日 付 2001/01/28  朝・夕刊 朝刊  政治・行政  3  1版 
見出し 日曜評論/ハワイで考える沖縄/ロバート仲宗根(WUBインターナショナル会長) 
本 文
日曜評論/ハワイで考える沖縄/ロバート仲宗根(WUBインターナショナル会長)


 ハワイで生まれ、英語を母国語とする私は「生まれ変わったウチナーンチュ」である。
 昨年は、ハワイと沖縄のウチナーンチュにとって意義深い年であった。われわれの先輩がプランテーション労働者としてハワイの土地を踏んでからちょうど百年を迎え、沖縄ではG8サミットが開催された年である。
 沖縄サミットで最も印象深かったのは、クリントン大統領が平和の礎で述べた演説だった。大統領は、東西センターに研究機関を設けて、沖縄からの研究者を受け入れる方針を表明した。このプロジェクトは「小渕・沖縄教育研究プログラム」と呼ばれている。
 ハワイと沖縄は共通点が多い。共に本土から地理的に離れており、歴史、民族も本土とは異なっている。沖縄はかつては独立した王国であり、優れた航海術を身に付けていた。琉球王朝の時代には中国や東南アジアとの貿易で栄えていた。しかし、十九世紀には、ハワイと同様、力の強い国の支配下に置かれてしまった。
 日本軍による真珠湾攻撃は合衆国を戦争へ導いたが、太平洋戦争で地上戦を体験したのは合衆国ではハワイだけで、沖縄が日本国での唯一の地上激戦地となったことと同じである。観光と農業を主体とし、基地があることも同じだ。
 現在、オアフ島の基地面積は一五%で、ハワイ経済の一二%が基地経済に依存している。沖縄の基地面積は二〇%で経済依存は五%。両地とも失業問題に悩んでいる。
 ハワイのウチナーンチュはこれまでの百年間、民族的なルーツをしっかりと守ってきた。ハワイにやってきたのは、日本本土の人たちより十五年も遅かった。ウチナーンチュのほとんどは日本語を話したが、アクセントや名字、風貌が本土の人たちと違うため、異なった扱いを受けていた。
 ウチナーンチュは、それぞれの出身地の伝統を守るために、村人会や町人会を作り、踊りやスポーツ、ピクニック、新年会などを楽しんでいた。葬式、結婚式、ビジネスや子供の教育に至るまですべての面でお互いに助けあい、模合も行われてきた。その地域ごとの集まりが、一九五一年にハワイ沖縄県人会に統合されたのである。
 戦後、沖縄を訪問した比嘉太郎は、当時の沖縄の荒廃した現状をハワイのウチナーンチュに訴え、養豚用の豚、子供たちにミルクが与えられるようにヤギ、そして衣類、学用品や医薬品などを沖縄に送った。援助物資を受け取った沖縄の人々はその恩を決して忘れなかった。一九九〇年にハワイ・沖縄文化センター建設の時には、沖縄側から多くの寄付金が送られた。沖縄県人会はハワイでは四番目に大きく、唯一、文化センターがある。
 ハワイには現在、約二十四万人の日系人あるいは日本人の血を引く人々がおり、そのうち四万五千―五万人がウチナーンチュである。この数字はハワイの総人口の四%に過ぎない。しかし、ハワイ州議員の一一%がウチナーンチュである。行政、教育、工学技師、財政、法律、ビジネスの世界でもウチナーンチュの活躍はめざましい。
 一九九〇年に行われた第一回世界のウチナーンチュ大会にはハワイから三百人が参加した。第二回大会にはカエタノ州知事はじめ五百人が参加した。今年十一月に開催される第三回大会を心待ちにしている。大会で発揮されるウチナーンチュ精神が世界中に広がってほしいと心から願っている。


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