日 付
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2001/05/20 |
朝・夕刊
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朝刊 |
面
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政治・行政 |
頁
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3 |
版
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1版 |
見出し
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日曜評論/ハワイ移民一世物語/ロバート仲宗根(WUBインターナショナル会長) |
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本 文
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日曜評論/ハワイ移民一世物語/ロバート仲宗根(WUBインターナショナル会長)
【東京】現在の暮らしに対する県民の満足度は高まる一方、長引く不況の影響で失業を身近に感じる人が増え、一九七二年の復帰当時に比べ、沖縄の経済・社会は「順調に発展していない」と感じる人も増えた―。内閣府が実施した「沖縄県民の意識に関する世論調査」から、このような県民像が浮かび上がった。最大の懸案事項である米軍基地に対する意識の変化もうかがえる。
私の父・仲宗根松郎はハワイ一世移民のひとりで、生きていれば、今月「かじまやー」を祝うはずであった。父は一九〇三年に現在の石川市で生まれ、一九二〇年、祖父と共にハワイに渡ってきた。祖父はその後沖縄に戻り、沖縄の家族を経済的に支えるため、父がハワイに残った。
父はオアフ島、マウイ島、ラナイ島のプランテーションで料理人として働き、一九三二年に「帰米二世」の玉那覇ツル子と結婚した。私が生まれた一九三七年には、小さいながらも、レストランを開店することができた。店はオアフ島の飲み屋街にあり、名前を「アロハ・ホットドッグ・スタンド」とつけた。一家は、店の二階で暮らした。当時はまだ水道がなく、建物の住人たちは、ベランダに置いてある水桶(おけ)の水を、日常生活に利用していた。トイレは階下で、ふろは共同であった。
幼心にも、私はパール・ハーバーで何が起こったかを明確に覚えている。レストランが海岸近くにあったため、騒ぎは身近だった。騒動の中、日曜学校に行っていた兄を迎えに、家を出た父がしばらく帰らなかったときは、ほんとに心配した。
戦時中、消灯は日常茶飯事であった。子供だった私はサイレンの音をまねたり、暗やみの中を駆け回り、転んで頭にケガをした。その傷あとは今も残っている。
戦後、父はビジネスで得た資金を元手に、小さなビルと裏手の一軒家を購入した。その年に妹が生まれ、レストランを一人娘の名にちなんで、「ジェーンズ・ファウンテン」と名付けた。母は一日中働き、私たち兄弟は学校へ通うかたわら、調理、皿洗い、掃除、なんでも手伝った。レストランは、正月を除き、毎日開店していた。経営は順調で、父は隣接する土地を買い求め規模を大きくした。
満足に教育を受けられなかった父にとって、子供たちの教育は、何よりも重要であった。経済状況が許す限り、父は私たちを私立高校へ通わせ、大学もハワイやアメリカ本土へ行かせてくれた。
父はまた、私たちを日本語学校へやった。私自身は日本語の必要性を全く感じていなかったため迷惑だったが、父に説得されて、仕方なく通った覚えがある。今思えば、父の言う通りに日本語を学んでおけばよかったと後悔している。
父は素朴で堅実な働き者であった。古い木ぎれや、パイプ、くぎなども再利用できるように大切にとっておいた。服は全部母の手作りであった。家に一台あった自転車は兄弟の間で次々とお下がりにして使っていた。
成長するにつれて、私たち兄弟は英語で話すようになり、両親とは簡単な日本語で話していた。私は東京での仕事を通して日本語を学ぶことができたので、ハワイに帰ってから父と日本語で話せることがうれしかった。
ビジネスが成功すると、父は沖縄や日本本土を何度も訪れ、南米のウチナーンチュにも会いに行った。私がニューヨークで仕事をしていたときも訪ねてくれた。父が故郷沖縄を最後に訪ねたのは一九八九年である。翌年、ハワイ・沖縄センターの開催式典に出席し、西銘順治知事とも会うことができて大変喜んでいた。私も父の喜ぶ姿を見て幸せであった。
私の娘が高校生のころ、学校の宿題で父にインタビューしたことがある。「人生に一番大切なものは?」と聞かれて、父は「良き友人を持つこと」と答えていた。苦労した父だったが、たくさんの良き友に恵まれて幸福だったと思う。
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