琉球新報 記事詳細

日 付 2001/05/21  朝・夕刊 朝刊  教育  19  1版 
見出し 日米協同の人材育成支援/小渕教育研究プログラムの活用/上/サミット機に復活/米東西センターが働き掛け/島袋鉄男 
本 文
日米協同の人材育成支援/小渕教育研究プログラムの活用/上/サミット機に復活/米東西センターが働き掛け/島袋鉄男


 県内の大学院生、研究者をハワイ東西センターに派遣する小渕教育研究プログラムの奨学生の募集が始まっている。同プログラムの創設にかかわった島袋鉄男琉球大学教授に、東西センターと同プログラムの趣旨について原稿を寄せてもらった。

 平和の礎で行ったスピーチでクリントン前大統領は、沖縄の将来を担う国際的な人材の育成を日米共同で支援するための奨学制度を設けること、それを小渕元総理にささげたい旨を表明した。そしてそれは、小渕沖縄教育研究プログラムとして具体化し、昨年度、研究者三人と大学院生二人の第一回の派遣が実現した。
 ただし昨年度は、年度途中で手続きを急がなければならない事情もあって、十分な情報提供と応募期間もないまま、派遣が決定された。本年度は早々と募集が始まった。研究者の応募締め切りが六月二十五日、大学院生が六月八日である。このプログラムの創設にかかわった者の一人として、創設の経緯、内容、特質等について述べ、特に若い人たちの積極的な参加を促したい。
 まず、このプログラムはハワイにある東西(イースト・ウエスト)センターの発意によるものであるということを強調しておきたい。東西センターの働き掛けがなかったら、このプログラムは実現しなかったであろう。
 東西センターは、米国とアジア・太平洋諸国との相互理解や良好な関係を促進することを目的に、一九六〇年に米国議会によって設立された機関である。冷戦構造下にあった六〇年代、東西センターは、共産主義の脅威から民主主義を守るというある種の外交機能を有する公的機関として、米国議会や国民の支持を得て、アジア諸国から多くの留学生や研究者を受け入れた。この時期、沖縄からも東西センターに多くの研究生、学生あるいは研修生が送り込まれた。六〇年から七二年の間に東西センターが受け入れた留学生・研究者等の数は、アジア・太平洋諸国や日本を抜いて、沖縄が地域としては一番多く、全体の一七%を占めた。

復帰後は低迷

 冷戦構造の崩壊や規制緩和・民営化の動きなどを背景に、九〇年代に入って、センターの財政は窮地に立たされる。米国議会からの財政支出は、ピーク時の半分に減らされ、センターは職員や研究員を半分以下に減らさざるを得なかった。一方、沖縄からの留学生、研究者等は、沖縄の復帰によって、七二年以降ほとんどゼロに近い状態にまで減少した。東西センターは、このような困難な状況を乗り切るためにさまざまな努力をしている。
 一つは、センターの理念をより明確にし、今の時代にあってもなお、センターが米国議会からの財政支出を受けるに値する存在であることをアピールすることである。ほかの一つは、センターの財政基盤を強化すること、中でも、米国議会の財政支出以外の財源を確保することである。前者は、「アジア・太平洋共同体の構築」をその理念に掲げ、後者は「公・私共同体」としての運営を目指すという計画に具体化されている。

奨学制度再開へ

 東西センターの右のような事情を背景に、東西センターに沖縄からの学生や企業の研修生を受け入れるための基金造成の運動が始まった。すなわち、東西センター沖縄同窓会は、再度、沖縄からセンターに留学生を送ろうという動きを始め、その働き掛けによって沖縄の企業からセンターへ奨学金の寄付もなされた。
 また、ワールド・ウチナーンチュ・ビジネス・アソシエーション(WUB)の会長であるロバート・仲宗根さんが、センターの沖縄プロジェクト・コーディネーターに就任し、沖縄からの留学生等の受け入れ計画を立てて活動を開始していた。そこに、サミットの沖縄開催が決定され、またとないチャンスが到来した。その機会をとらえ、ロバート・仲宗根、センター総長のチャールス・モリソン、前ハワイ州知事でセンター理事長のジョージ・有吉らによるホワイトハウス、米国議会、米国大使館、日本政府、沖縄県を巻き込んでの運動によって、小渕プログラムが実現したのである。
 (琉球大学法文学部教授)



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