琉球新報 記事詳細

日 付 2001/10/01  朝・夕刊 朝刊  特集  18  1版 
見出し 移民の歴史中国・南洋群島フィリピン・ヨーロッパ編/第3回世界のウチナーンチュ大会(11月1日―4日) 
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移民の歴史中国・南洋群島フィリピン・ヨーロッパ編/第3回世界のウチナーンチュ大会(11月1日―4日)


■中 国

 沖縄との関係が深い中国だが、戦前の移民は当時の軍国主義の国策に乗った満州開拓の形で実施された。
 「満州国」成立以後、沖縄県も大陸への移住を推進した。一九三八年から「満蒙開拓青少年義勇軍」が移住。三九年には一般の農業移民を開始した。四三年、当時の県は「十カ年五万戸分村計画」をまとめた。
 戦争によって沖縄県出身の軍人、軍属、民間人合わせて約千七百人が死亡。引き揚げ(強制送還)の混乱で、「残留孤児」の悲劇も生まれた。
 戦後、沖縄と福建省の交流が再開し、九八年に福建・沖縄友好会館が完成。現在、県内企業六社が入居している。九九年には福建省沖縄県人会(伊志嶺正次会長)が発足。二〇〇〇年には同省や大連市、南寧市に進出した県内企業十二社でWUB中国が組織された。
 〇一年五月には福州市でウチナーンチュ大会記念中国交流祭も開催された。

■南洋群島

 南洋群島への移住は一九一四年、糸満の漁師ら十七人がサイパンに渡ったのが最初といわれる。南洋移民は国の南進政策に乗り、多数の県民が南洋群島に移住し、サトウキビ作や漁業に従事した。四二年時点の在留日本人七万千六百人のうち五万六千九百人を県出身者が占めた。
 四四年、南洋群島は日米両軍の激戦の部隊となった。米軍は六月、サイパンに上陸。七月にはテニアンに上陸し、日本軍と戦闘。県出身者も戦闘に巻き込まれ、一万二千人が戦死した。「集団自決」も起きた。
 現在、南洋群島帰還者による慰霊墓参が毎年行われている。

■フィリピン

 フィリピンへの移住は一九〇四年、道路工事の労働者として三百六十人が渡航したのが最初。その時、沖縄県移民の監督だったのが当山久三と同郷(金武)の大城孝蔵だった。
 以後、ほぼ毎年移住が続き、一九四〇年の段階で、九千九百人の県出身者が滞在している。
 四二年、日本軍はフィリピンを支配下に置き、軍政を敷くが、四四年十月、米軍がレイテ島に上陸。日米両軍の戦闘は全土に拡大し、一般の在留邦人も戦闘に巻き込まれた。県出身戦死者は一万二千人にも上った。
 戦後の移住も盛んで、フィリピン沖縄県人会も活動している。

■ヨーロッパ

 活躍の場を海外に求めるウチナーンチュはヨーロッパへも渡った。現在、フランス、イギリス、ドイツ、スペイン、スウェーデン、スイスの六カ国に七県人会が組織されている。
 今年七月にはWUB欧州支部も発足した。



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