琉球新報 記事詳細

日 付 2001/12/30  朝・夕刊 朝刊  政治・行政  3  1版 
見出し 日曜評論/もう一つのベンチャー/重田辰弥(WUB東京会長、日本アドバンストシステム社長) 
本 文
日曜評論/もう一つのベンチャー/重田辰弥(WUB東京会長、日本アドバンストシステム社長)


 いま、他に勝る公的支援制度に富む沖縄では、ことさらにベンチャー企業論が盛んだ。ベンチャー企業を「リスクを背負った小規模ビジネス」と規定したら、昔から東京では沖縄出の元気印の女性たちが活躍している。夜の東京でお店を経営している女性たちだ。
 昔はクラブやバーのママというと出自を隠す「転落少女の成功者」のようなイメージがあったが、私の知る県出身のママたちは大分違う。十年以上お店を継続している彼女たちは、若くして沖縄を出てアルバイト、お手伝いをしながら目標を持ち続け、ついに銀座、赤坂で夢を実現している。それでいながら大方の私生活はつましく、結婚して家庭を持つという自らの幸せを後回しにして、古琉球の伝える「うなりがなし」を今に実現するように、故郷の親兄弟に学資や商売資金の経済援助をしながら、沖縄に土地を買い、東京で家屋を購入して、資産形成するなど真に頼もしい。
 中には研究資金確保のために、銀座でお店を経営している元女優の稀有な例もある。映画やテレビで見るように、外車に乗って高級マンション住まいという派手なケースは知らない。
 復帰前上京して、御徒町のアメ横で、沖縄から送ってもらったアメリカ製の干しぶどうやジョニ黒を学資の糧に換金し、東京で中小企業のオーナーになった私のような者は、そんな彼女たちが戦友に見える。十年以上の継続を誇りつつ今も旬のそれらのお店は銀座「夕雨子」の与古田さん「阿檀」の知念さん、「芭蕉布」の瑞慶覧さん、「麻耶」のマキさん、赤坂は「みなみ」の伊佐さん、新宿は「ぶうげん」の政子さんに「北山」の二条さんを抜かすことが出来ない。池袋ではこれらとは違うが三十年以上の老舗を誇る琉球料理「みやらび」の功子先生がいる。その昔新宿には「うるま」や「西武門」に名物ママがいた。すべてにおいて厳しい東京で遊学、単身赴任あるいは長期出張の経験ある県人は、それぞれの世代と時代に元気印のこれら県出身の女性たちにいやされ、安らいだ経験と思い出があるだろう。
 これらのお店ではまた県内でめったにお会いできない要人とごく親しく知己にもなれる。私の場合、二十数年前の創業時、今はない赤坂「那覇」の絹代ママの笑顔にはずいぶん励まされた。ここで紹介された人々は今も私の貴重な財産だ。この絹代ママの前身のお店で後に副知事・電力社長、弁護士、開発庁局長とそれぞれ栄進する仲井真、金城、嘉手川三同期先輩トリオが若い血を燃やしたという伝説もある。この高校の三先輩が在京の壮年期、度々「那覇」でかち合い「シマ荒らしの後輩野郎」といびられたものだ。いま飛ぶ鳥を落とす勢いの上間RBC常務が東京支社で営業として苦戦していたころ、亡くなった新宿「上原」の上原ママの気風のいい檄を浴びていた姿を思い出す。
 一口に水商売というが生き馬の目を抜く競争の激しい銀座や赤坂で、オーナーとして十年以上もお店を経営するのは並大抵ではない。起業者の中で十年以上組織を維持継続するのは、何割ぐらいいるだろうか。それを思うと、これはもう立派な経営者だ。
 彼女たちは、それぞれ並みの頭でっかちの起業家ではとてもかなわない学ぶべき人事管理や資金調達力、顧客観察力をたくまずして本能的にもっている。この不況期、例外なく苦戦はしているものの何より夢を失っていない。


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