琉球新報 記事詳細

日 付 2003/08/12  朝・夕刊 朝刊  その他  5  1版 
見出し <論壇>対馬丸から何を学びとれるか/二度と悲劇を起こさないために/湧川ふき子 
本 文
<論壇>対馬丸から何を学びとれるか/二度と悲劇を起こさないために/湧川ふき子


 今年も八月を迎えた。子どもたちは夏休み、大人たちも海や山やビアガーデンに親しむバカンスシーズンである半面、六日は広島原爆の日、九日は長崎原爆の日、十五日は終戦記念日など鎮魂の月でもある。二十二日は多くの学童らを乗せた疎開船・対馬丸が米軍潜水艦に撃沈された日。今から五十九年前の一九四四年のことだ。
 対馬丸には千六百六十一人が乗船したとされている。乗船者名簿の存在が現時点で確認されておらず、直前で乗船を取りやめた者、コネを使って強引に乗り込んだ者がいたというから、数字の正確さはひとまず置かせていただき話を続ける。
 その内訳は一般が八百三十五人、六歳から十四〜十五歳の学童が八百二十六人。一般の中には、学童と同じ年齢の那覇市以外の子どもたちや就学前の小さな子たちも含まれている。そして生き残ったのは一般百十八人、学童五十九人の計百七十七人。全体のわずか一割(10・66%)ということになる。先に書いたように数字が百パーセント正しいかどうかはわからないが、大きな狂いはないはずだ。また、ここで大事なのは数字の正確さではなく、多くの命が国策の下に犠牲となったという事実を知ってもらうことだと思っている。
 よく知られている海難事故にタイタニック号がある。一九一二年、当時、世界最高かつ最大の豪華さを誇ったこの客船は、他船からの警告を無視して高速で北大西洋を航行中、氷山と衝突して多くの犠牲者を出した。乗客、乗員二千二百二十三人のうち七百六人が生き残り、三人に二人が亡くなったタイタニック号も大変な惨事だったが、十人中九人が犠牲になった対馬丸は、それを上回る大惨事だったといえる。
 対馬丸の生存者の一人は私の父だ。祖母と二人の叔父は犠牲となった。来年、那覇市の旭ケ丘公園内に「対馬丸記念館」が開館する。国から慰謝事業という名の予算がおりて建設されるものだが、「運営費はすべて自力で賄いなさい」という難問を突きつけられた一面もあるので、当初は遺族の間でも賛否両論があったと聞く。いずれにしろ、対馬丸記念館は来年オープンする。ならば、どんな会館を目指し、どんなメッセージを未来に向けて伝えていくかである。
 対馬丸記念館は慰謝事業として建設されるが、対馬丸の事件は遺族や関係者だけのものだろうか。そうではないはずだし、それで終わらせてもいけないと思う。これまでの、「事実を伝える」段階から、二度と悲劇を起こさないために「対馬丸から何が学びとれるか」ヘ、シフトしなくてはいけない時期に来ている気がする。胸を痛めてばかりもいられない。
 八月十五日(金曜)午後二時から、那覇市東町の県立郷土劇場で「対馬丸記念館〜六〇年後の出航に向けて」と題して、プレイベントを開催する。できるだけ子どもたちと一緒に考える場にしたいと思い、事前学習を積んだ高校生たちのディスカッションや与勝高校の創作ダンス、鏡水の子どもエイサーなど、子ども参加型のプログラムを中心に企画した。ぜひ多くの皆さんに参加いただきたい。
 (対馬丸8・15イベント実行委員)



備 考  
ニュース源 その他  記事種   写真枚数 1