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2002/11/12

<ボリヴィア随想>

小畑 耕行

 

●懐かしい世界

今回のボリヴィアへの旅は大変印象深いものでした。私の見たサンタクルースの市場やコロニアオキナワの情景は、終戦当時の日本の闇市やアメリカ型の近代的大農場を髣髴とさせるものでした。そこには近代と現代が交錯した世界があり、戦後の混乱期に古い文化と新しい文化が入り混じる中で、貧しくも活気溢れる生活をおくっていた往時の日本・沖縄の姿を思い出し、感慨を新たにしました。

そこでは文明の利器や利便さより、人間が本来持っている感性や知恵の方がはるかに価値があり、我々のように都会の暮らしに慣れた人間が失ってしまったものが、脈々と生き続けているように感じました。

 

●移住に対する新たな思い

 移住には、計画的、自主的、集団的、個人的などいくつかの形態が考えられますが、社会通念では、農業に従事することを目的とした計画移民の制度によって集団で海外へ移り住むことを指していると思います。

日本における海外移住は明治時代に始まり、爾来南北アメリカ大陸を中心に数多くの移住者が海を渡って行きました。沖縄からの海外移住は、1899年(明治36年)のハワイ移住に始まって、ペルー(1906年)、ブラジル(1908年)へと続き、その後北米やメキシコ、フィリピンなど各地へ拡大し、南米ではブラジルからアルゼンチン、ペルーからボリヴィアへの再移住も行なわれ、これに後続の移住者も加わって徐々に広がりを増していったようです。戦前、沖縄から海外へ渡った移住者総数は7万5000名を越えています。
 戦後、沖縄からの海外移住は、1948年にアルゼンチン、ペルーの移住者からの呼び寄せ移住という形で始まりましたが、多くの土地が焼け野原となったり軍用地に接収されたりして農耕地の不足が続く中、救済の切り札として琉球民政府によって立案されたのが、ボリヴィアへ農業新天地を求めるという大々的な移住計画でした。1954年に始まった琉球民政府による初めてのこの大事業には、全島から豊富な経験や見識を持つ多くの人々が参加し、第1次から第19次に至るまで、総計3386名のウチナンチュが計画移民としてボリヴィアを目指したと聞いています。

うるま入植地から始まった戦後のボリヴィア移住は、うるま病という風土病の発生や、干ばつ、水害など度重なる不運に見舞われ、途中でブラジルやアルゼンチンなどに転地されたり、やむなく帰沖された方々もおられるようですが、その開拓精神は脈々と受け継がれ、現在880名余の方々によって立派なコロニアオキナワが形成され「OKINAWA」という地名まで冠せられて地図上に記載されるまでに発展を遂げています。

今回のツアーでは、コロニアオキナワでの生活をほんのちょっと垣間見たに過ぎませんが、日ボ会館で長嶺さんの少年時代のお写真や、入植地までの道程、入植直後の生活状況を記録した写真などを拝見し、日ボ協会会長のお話を拝聴した後、津嘉山さんや幸地さん、津坂さんのお宅を訪問する中で、海外移住という大事業の発展段階を見る思いがしました。

三者三様それぞれに個性がある素晴らしいお宅で、過去にあった数多くの困難や苦労を乗り越えて、現在では移住地の大地にしっかりと根を張り、大らかな自然の中で緩やかな時間の流れを感じながら、充実した生活を楽しんでおられるという印象を受けました。

津嘉山さんにはわざわざコンバインの運転をお願いして、大豆の収穫風景を見せていただきました。夕映えの広大なボリヴィアの大地を力強く走るコンバインの雄姿は感動的でした。

移住地で色々なことを見聞きしながら、移住地の生活について改めて考えてみました。移住地の生活は、移住国や入植からの時間の経過によって様々に異なるのでしょうが、恐らく次のような発展段階を経て、成熟度を増していくものと思われます。

1.開墾期

親を中心に兄弟が一丸となって原野を開墾し、農業用地を切り開いて生活の基礎を築く時期

2.展開期

   農業用地を拡大しながら、栽培作物の選定や農耕法の研究を行ない、生活の安定化を目指す時期

3.安定期

   移住者としての色彩は薄れて、移住国の国民として農業以外の色々な分野に進出し、各方面で活躍する人材を輩出する時期

このような発展過程において、教育熱心な日本人は子弟の将来のことを考え、働き手の減少という苦しさを乗り越えながら子弟の学習に力を注ぐので、移住後早い時期に農業以外の分野でも活躍する人材が生まれてくるのだと思われます。今回のボリヴィア訪問は、このような考えに思いを巡らせ、移住者の夢と苦労に思いを馳せる旅でもありました。

 

●万国津梁の精神とWUB

 沖縄には、第一尚氏六代目の尚泰久王が1458年に大琉球の理念を刻んで鋳造させ、首里城正殿の前にかけた「万国津梁の鐘」があります。この銘文に刻まれた「舟とかじを以って万国の架け橋にしよう」という精神は現代までも受け継がれ、海外交易や海外移住の原動力になっているように思われます。

 WUBの「Worldwide Uchinanchu Business Association」は、まさにこの精神を具現化しようという思いが込められたネーミングであると感じます。海外を舞台に活躍しようとする精神は、交易や開拓移住以外にも様々な形で実現されていると思われますが、コロニアオキナワの生活は、このことを象徴的に示しており、今回のボリヴィア訪問は万国津梁の精神」を肌で感じる旅になりました。

 

●ラパスへの旅

 サンタクルースで世界大会を終えてから高地のラパスまで足を伸ばしましたが、ここでは、また別の感慨深い思いを抱きました。標高4082mに位置するラパス空港は、サンタクルースに比べて20℃以上も気温が低く、希薄で凛とした空気に包まれていました。4000m以上の高地に降り立つのは初めての経験で、空港から公道に出るなり大粒の大量の雹に見舞われて、びっくりしたりもしました。

チチカカ湖では、葦の舟に乗せてもらいアイマラの人々と接することができました。ガイドのErnestoさんもアイマラの血が流れる、とても親切で好感の持てる人でした。彼が「我々にも2歳頃まで蒙古班があって同じモンゴロイドの末裔なんですよ」と誇らしげにに語るのが、とても新鮮に感じられました。

チチカカ湖からラパスのホテルに向かう車中で日が暮れ、街に近づく頃にはすっかり夜になっていました。ラパスは周囲を山地に囲まれた3800mの高地の盆地に築かれた都市で、市街地に入るにはすり鉢状の斜面を螺旋状に旋回しながら降りて行くような地形になっています。

下り坂にかかる手前の、ちょうどすり鉢の上の縁にあたる場所でErnestoさんが車を止めて、眼下に広がる大パノラマを見せてくれました。そこから見た夜景は実に素晴らしいものでした。すっかり闇に包まれた空間にぽつりぽつりと輝く街の灯りは、蛍の光のように淡く幻想的で、とても美しく神秘的でさえありました。

翌日はMoonValleyや市街地中央の高台にある公園などの観光も行ないましたが、そこへ向かう車中から見たスペイン人主体の集落やアイマラ人の集落からは、貧富の差や社会構造などを深く考えさせられました。

ラパスでは、豊かなスペイン人は街の中心から少し離れたサン・ミゲールという盆地低部の暖かい地区に住み、貧しいアイマラ人は高地の寒い地域に住んでいます。車窓から垣間見たアイマラ人の住居はとても粗末なものでした。

人口比率は、先住民のケチュア族・アイマラ族が55%、白人と先住民との混血が32%、白人が13%で、数では圧倒的に先住民の方が多いのですが、彼らは社会の権力機構の中ではマイノリティで、公的なポストに就いている人は少なく社会構造に問題を抱えていることも感じました。

 

●日本人に対する期待

 ラパスでの滞在は極めて短かったので早計に過ぎる嫌いはありますが、買い物中に遭遇したデモは、貧富の差と社会構造の問題点を裏付けているように思われました。

ラパス市内で毎日行なわれているデモのことなどを思うと、アイマラ、ケチュアなどインディオと呼ばれる人々にとっては、国の主要ポストがスペイン人中心の社会の中で、よく勉強し勤勉で真面目な日本人が、次第に公的な場で活躍するようになり、両者の間に立った中立的役割を果たしてくれることを期待しているのだろうなと感じました。

日本人移住者に対する期待感は強く、事情はよく分かりませんが、先年隣国のペルーでフジモリ大統領が彗星のごとく登場した背景には、こうした社会状況があったのかなと想像したりもしました。

 

 以上、今回のボリヴィア訪問は、忘れていた世界を思い出したり、コロニアオキナワでの子供たちの純粋な歓迎や心からのもてなし料理に感激し肝グクルを感じたり、標高4000mの高地で感慨深い思いを抱いたり、インディオの人々に接し社会構造の問題点を感じたりしながらの万国津梁と肝グクルとイチャリバチョーデーの精神」を肌で感じる思い出深い旅となりました。